タイ族の南下
先史時代、現在のタイの地にはインド系先住民のモン族が住んでいて、4千年以上前から農耕文明を築いていました。
一方、中国南部の雲南、四川、広西の三省にまたがる山岳地帯で暮らしていたタイ族は、漢民族の圧力で、後8~9世紀頃から徐々に南下をし始め、2百~3百年という長い年月をかけて、チェンマイ県からチェンライ県に流入しました。そして11世紀の初頭には、タイ北部の地域に多くのムアン(小首長国)を建て、定住するようになりました。しかし、独立はしておらずクメール帝国の支配下にあったのです。
タイ族最初王朝のスコータイ王国
1096年に、タイ北部に都市国家規模のパヤオ国が興り、後のスコータイ王国やラーンナー王国と友好関係を保つように
なります。
1218年頃、40年間クメール王国を統治をしていたジャヤヴァルマン7世が亡くなると、タイ族はムアンを併合して一致団結し、クメール王国に対して反乱を起こしました。そして1238年、最初の統一王朝スコータイ王国を建国します。
スコータイ王国の建国者シーイントラチット王は、建国した際、クメール王国の文化を払拭するために仏教を国内に広めました。スコータイ王朝は、第3代国王ラームカムヘンの時に最盛期を迎え、現在のタイの国土以上に広い地域を制圧しました。
ラームカムヘン王は、中国から陶磁器製造技術を持ち込んだり、クメール文字をもとにタイ文字を生み出したり、テラワーダ仏教を国内に普及させたりしました。
タイの寺院ワットの役割は、仏教の教えを説く所だけではなく、集会所や学校の代わりにもなり、病院の役割を果たすことも多くありました。そのワットで、タイマッサージは奉仕活動の一環として、体の悪い人たちに無償で施され、仏教の教えとタイ伝統医学(タイマッサージ、薬草医学、栄養医学、霊的精神療法、薬草サウナ療法)は一体化して、タイ全土に広がっていったのです。
ラーンナー王国
1281年、ムアン・グンヤーンのメンライ王は、タイ北部のチェンマイ、チェンライ、ランプーン、メーホーソーン、プレー、ナーンといった地域にまたがる大小のムアンを次々と攻略しました。
最後にはハリプンジャヤ国も攻略して、ラーンナー王国を建国し1296年に新都としてチェンマイを造営しました。このラーンナー王朝は、1474年までアユタヤ王朝と対立を続けています。
その後ラーンナー王国は、1558年ビルマ軍に破れ、約200年の間、ビルマの属国となっています。そして18世紀には、一時的にビルマから独立をしますが、1939年にはラタナコーシン王朝(バンコク王朝)に併合されてしまいます。
しかし歴史的には、アユタヤ、ラタナコーシン王朝とは異なる文化、医学、言語、武術、習慣を持ち独自性の強い王朝であったことがわかっています。
アユタヤ王朝
スコータイ王朝の寿命は約150年と短く、14世紀中頃に同じタイ族のラーマティボディ1世が築いた、アユタヤ王朝に併合されてしまいます。
アユタヤ王朝の勢いはめざましく、東のクメール王国の牙城であったアンコールを陥落させ、インドシナ半島中央部をほぼ支配下におき、南はマレー諸国を脅かすほどまでに領土を拡大します。
アユタヤ王朝は、文化的にはテラワーダ仏教を国教としながらも、王の権威を高めるため、バラモン教の神であるシヴァ神やヴィシュヌ神の概念も導入しました。
17世紀アユタヤには、中国人、ポルトガル人、日本人などの居留区があり、海外貿易も盛んで日本からは御朱印船が来航
し、当時日本人町には、800人から3000人の日本人が住んでいました。日本人義勇隊長としては山田長政が活躍しましたが、戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡してしまいます。その後、「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされました。
アユタヤ時代は、モー・ヌワッド(マッサージ医師)局、薬剤師、小児科医、赤い鞄や赤い杖を持ったモー・ルアン(王家の医師)などに分野が区分けされていました。赤い杖はどこでも薬用植物の採集ができるという許可証の証でした。
「タイ人は病気になっても何もせず、ただマッサージをする。そしてたいてい治ってしまう」とフランス人の神父ラールベーは述べています。この言葉は、伝統医学の中でもとりわけタイマッサージによる治療が既に一般に広く普及していたことを反映しています。
タイマッサージは庶民の間から起こり、それが宮廷マッサージの形まで発展し、王族・貴族の人たちに施されたと考えられます。
しかし18世紀になると、アユタヤ王朝の勢いも衰えはじめ、1767年には、度重なるビルマ軍の攻撃にアユタヤは遂に陥落し、417年間の王朝に幕を閉じました。この時に、重要な伝統医学書や宗教教義、政府の公式記録のほとんどが失われてしまいます。
アユタヤ陥落の半年後、猛将タクシンは、アユタヤを急襲して、ビルマ軍を完全に撃破し、再びアユタヤを取り戻します。タクシン王は、廃墟となったアユタヤに見切りをつけて、南のチャオプラヤー川沿いのトンブリに都を移し王朝を築きます。しかし晩年精神障害をきたし、1782年、部下によって処刑されてしまいます。
ラタナコーシン王朝時代
ラーマ1世の時代(1782年~1809年)
タクシン王死後、ラーマ1世は、王都を対岸のバンコクに移し、ラタナコーシン(チャクリー)王朝を築きます。
ラーマ1世は、アユタヤを模倣してエメラルドブッダで有名なワット・プラケオを建立しました。ワット・プラケオの入り口には、タイ伝統医学の祖「シワカ・コマラパ師」の座像があり、毎日お参りをする人の跡が絶えません。
またラーマ1世は、バンコク最古の寺院、ワット・ポータラム(別名ワット・ポー)の本堂を修復しました。そして、境内にルースィーダットンと呼ばれる仙人の体操の彫像を作りました。ワット・ポーには、全国各地の医学知識が集約され、薬草医学の処方とマッサージ法は、サーラーラーイと呼ばれる東屋の石版に刻まれています。
ラーマ2世時代(1809年~1824年)
ラーマ2世は、1809年に即位され、数多くの医学書を全国から集め、モー・ルアンの編纂によって、「伝統医学の教本」をつくりました。
ラーマ2世時代(1809年~1824年)
ラーマ3世は1824年に即位し、ワット・ポーにタイで最初の大学を設置しました。ここでは、タイ伝統医学の他、パーリ語、仏教教理、占星術、文学、美術などが教えられました。そして、亜鉛と錫の合金でできたルースィーダットン像80体も作り直されました。また、かつては王宮内でしか植えられていなかった入手しにくい薬用植物なども寺院内に植えられました。
現在でも、ワット・ポーには、タイ伝統医学の学校が残っており、世界中からタイマッサージを習いに来ています。
ラーマ4世時代(1851年~1868年)
ラーマ4世(モンクット王)は、20歳の時に出家をして仏道修行に励み、1851年に即位しました。当時、西欧列強はアジアの植民地化を進め、既にセイロン(スリランカ)は英領、インドネシアはオランダ領となっていました。またビルマ(ミャンマー)には英国が、ベトナム、ラオス、カンボジアにはフランスが植民地化の準備を進めていました。
西欧列強は植民地化を進める際に、まず宣教師を送りその国の指導者をキリスト教に改宗させ、そのキリスト教を武器とし
て侵略を進めたのです。
ラーマ4世は、キリスト教に対抗するために、迷信、俗信としか考えられない奇怪な儀式を行っていた仏教から、本来の合理的で科学的に証明できる仏教に改革しました。その改革はタマユット運動と呼ばれています。この仏教改革により、タイ国は植民地化をまぬがれ、東南アジアで唯一の独立を守り続けることができたのです。
2_10モンクット王と彼の子供達の家庭教師、イギリス女性のアンナ・レオノウェルズはミュージカル映画「王様と私」のモデルとなっています。しかし、この映画は事実を正確に描写していないとの理由で、タイ国内では上映禁止となっています。
ラーマ4世は新しい助産方法などの西洋医学を積極的に取り入れました。しかし、タイ人の間では、生活習慣に伝統医学が深く根ざしていたため、西洋医学に対する意識は容易に変わりませんでした。
ラーマ5世時代(1868年~1910年)
ラーマ4世がマラリアで崩御された後、ラーマ5世(チュラロンコーン王)が弱冠15歳で即位され、1898年(明治31年)には日タイ友好通商条約を締結しました。
またラーマ5世は、1905年に奴隷制度を廃止し、古い医学書にも興味を持たれ、後世に残すために保存しなければならないと考えました。この時代にはタイ国内最大最古の病院であるシリラート病院も設立され、伝統医学と西洋医学の治療が行われますが、後に西洋医学の人気が高まり、伝統医学は徐々に使われなくなりました。この時代ラーンナー王朝は、ラタナコーシン王朝の支配下に入り、ラーンナー王朝は終わりを告げます。
ラーマ6世時代(1910年~1925年)
ラーマ6世は9年間イギリス留学し、1910年に即位し、国民に姓を名乗らせ、義務教育制度を施行し、専門的知識もなく訓練や試験を受けていない者が医療に従事する危険を防ぐため、医療に関する勅令を発布しました。勅令に記された資格を満たす伝統医はごく一部だったため、伝統医の多くは捕まるのを恐れて、医者をやめたり医学書を捨てたりしました。それでも伝統医学は消滅しませんでした。
ラーマ7世時代(1925年~1934年)
ラーマ7世の治世中、世界は大恐慌に襲われ、1932年に立憲革命が起こり、絶対王政から立憲君主制になり、スコータイ王朝以来700年続いた絶対王政に終止符が打たれました。
立憲革命後、第一次ピブーン内閣は国号を「シャム」から自由を意味する「タイ」へ変更しました。この時代は、法律で近代医学と伝統医学が区分されるようになりました。
ラーマ8世の時代(1934年~1946年)
ラーマ7世の降座後、ラーマ8世が即位します。1946年スイスから学業を終えて帰国した王は、6月に宮殿内で、銃弾による謎の死を遂げます。この時代大東亜戦争が起こり、日本軍はインドへの補給ルート確保のため、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設します。
明日に架ける橋その様子を描いた映画「戦場に架ける橋」の中には、日本軍の残虐性を誇張して描いた部分がありますが、一部の軍人による乱暴な行動はあったものの、実際の日本軍の行動は、映画の描写とは全く異なり、欧米人捕虜やアジア人と同じ様な物を食べ、一緒に汗水を流して働いていたのです。
このことは、もと一労働者のプラソン・ソーンシリ元外相の話からも明らかです。
「教科書が教えてくれない東南アジア」(扶桑社)の中で、プラソン氏は「私は破格の給料をもらって働きました。タイ人労働者はみんなそうでしたよ。『仕事がある』と聞いてやってきたマレー人の中には、悲惨な目にあった人もいました。でも、酷使で死んだというよりも、病気で死んだのです。」と述べています。
近代医学が勢いを増してきたこの時代、「タイマッサージ」は治療効果が定かでないという理由で、タイ伝統医学の中から、一時その地位を失ってしまうのです。
ラーマ9世の時代(1946年~)
兄王の不幸な謎の死の後、ラーマ9世(現プミポン国王)は、19歳で即位をします。プミポン国王は、王宮内で農作物の研究をされたり、ヨットレースに出場したり、作曲や、映画を作るなど精力的に働き、その人格と知性により国民から多大な支持を得ています。
1961年、プミポン国王がワット・ポーを訪れ、マッサージの学校を設立するように要請しました。そして、一度地位を失ってしまったタイマッサージは、この時代に再びその治療効果が認められ、タイ伝統医学の一部門として復活を果たすのです。
国王の地位
タイでは、1932年の無血立憲革命以後、現在でも、国王の尊厳は衰えていません。憲法上、国王は神聖かつ不可侵の元首であり、タイ国軍を統帥する立場にあります。
また、国王はサンガ(仏教僧の集団)の頂点に立っていながら、バラモン教のシヴァ神やヴィシュヌ神の化身という位置にあり、人々の尊敬の対象となっているのです。タイの王室と日本の皇室とは大変親密な関係にあり、1999年7月には、秋篠宮同妃両殿下がプミポン国王72歳慶祝のため、タイを公式訪問されました。また2000年1月には故小渕総理がタイを公式訪問されています。
タイ人の日本に対する対日感情は大変良好であり、1997年4月に日本外務省が発表した「日本に関するASEAN(5カ国)世論調査」によると、98%ものタイ人が日本を友好国と見なしており、そのパーセンテージはASEAN諸国中第1位なのです。
(以上BAB出版「タイマッサージ」、「タイマッサージバイブル」より抜粋)